めも:作家と作家の属性について。
作家と作家の属性について。
「女性作家だとちょっといやだなという感覚」。うーん、あるかもしれない。でも、この感覚は自分の中のものでもありつつ、誰かに押し付けられたものなような気もする。どうだろう。自分の中の歪みと向き合うための良いきっかけなのかもしれない。
と、いうのも、私は人権に興味があるから、「作家が女性だから作品が嫌いになる」ことはない(と思う)んだけど、今までいきてきたなかで、「作家が女性だからより親近感沸いちゃった」とかはままある。
これは、ある意味差別的なのかもしれない。
女性作家チームに入るか、まんべんなくいろんな人がいるチームに入るか
私は前者のチームが放つ独特の色があると思う。その色が自分にあうかどうか。
また、まんべんなくいろんな人種・いろんな体型の人を集めたチームとかもあるんだけど、それはそれでどこまでも差別的であることからは逃れられない感じで複雑。
男性もいるチームを選んじゃう自分ってどうかなぁって思うけど…
あるオルタナティブギャラリーの運営の人に「女性の方が能力が高いが、アーティストチームは男性がいないと改革が起きないから」というようなことを言われたことがある気がするけど、言葉通りじゃなくても、いったいこの感覚というのはどこからくるんだろうなみたいなことは気になる。
わたしのなかにも「ある」「差別的感覚」。私はこれが恥ずかしい。けど、なぜこう考えるのか、考えたい。
作家の男性はクズじゃないと評価されないって感じに納得しちゃう私の感性にも未熟なかんじがある
私は作家がインモラリストでもいいと思うが、人間としてはモラリストと付き合いたい。
作品が良い→インモラリストだからといって評価がおちるわけじゃない
という思考なのであって、決して
インモラリストだから作家として価値が高い
という考えは順番が逆だと思う。生きてきたなかで、「(インモラルなことをして)クズを目指す」ことで作品を評価してもらおうとする人も少し見てきた。そして、それを評価する人も見てきた。これはまぁ2010年代にあったことのめもという感じ。
本題にもどって、属性について言及されると評価が変わることについては、表現するメディアに依存するところが大きいと思う。
切り分けることができるジャンルもあると思う。
例えば、身体を使うダンサーとかキャスターとかは身体属性を切り分けるのがむずいので、評価もそもそもの属性をどう扱うかに紐づいちゃうと思う。
逆に、エンジニアのコードとかは…(いや、実はかなり身体的だけど…)、属性がわかっても盛り上がりも盛り下がりもしない創作物かもしれない。
- 漫画
- イラスト
- 小説
- 音楽
上記は、ちょうど中間くらいで、とはいえ創作物なんだから自分がめちゃ出ちゃうし、属性は漏れでると思うけど、編集とか事務所の意向でいくらでも隠しとおせるので、評価を左右させないことができる。
この、ダンサーとは違う、「隠すこともできるんだけど漏れでちゃう部分」を、切り分けることができず、かつ、「自分の中の歪んだ期待と違ったから評価しない」という形に帰結してしまうんじゃないかな、と考えた。
差異をなくして社会学的固体を作り出そうとする暗黙の力の中和
「普遍性と統合力をもった、全体化と平等化の道具としての言語共同体」を脱神秘化する
ホミ・K・バーバ『文化の場所』p.264
ことについて気になった。
ただ単に、強力なものにたいして、否定するだけで対抗するのではなくて、「忍び込む」。一連の「時間」や用語や伝統から再構成してしまうという考えはほんとに面白いと思って、まだわからないんだけど、ちょこちょこ第八章の264ページ辺りは読んでいる。
故郷とか、伝統とか、信じるべき共同体の「捉え方そのもの」にしのびこんで、書き換えるのってスリリングで面白くない?
まぁ、現実的な対処法になるのかどうかは時間がかかりそうだけど…。
これからどうなるのがユートピア的で、どうなるのがディストピア的かということだけど…。
ユートピアだとしたら、作家の属性がどーだろーと知らね~~って感じ?作品見るのが楽しい!みたいな。若い女性が老翁(ろうおう)の気持ちとか描ききっても、もちろん優れたものだったら称賛されるし、描けてなかったら怒られる的な。うーん。ユートピアてか、普通だな。なんか見逃しがある気がするけど。
ディストピアだったら、みんなが作家の顔とか学歴ばかりを気にして永遠にまとめを調べて素顔見て喜んだりあいつは女だから買うのやめよーーーー、みたいな??むしろ禁書になるし捕まるしあることないこと晒されるみたいな??
うーん、それって今だな。
私のまとめとしては、
- 作家と属性の評価を切り分けるのはジャンルによっては可能だしジャンルによっては密接
- 中間地点のジャンルが一番苦しむ
- 属性ごとに慣習的な歪んだ評価があり、時にはその評価によって作品そのものの評価よりも評価される
- ただしそんな評価の仕方は能動的に変更されつつある
- そんな歪んだ評価の仕方だが、大衆の多くがその評価法を成長過程で知らず知らずに学び、馴染んでしまっている
- 今後は変態の時代がくるので、その評価法しかもってないとつらい時代になる
最後は飛躍なのであまり気にせずに。
飛躍
2020の12月頃、もっともっと今から考えたら意味不明な時代になるんだろうなーとおもってる。みんな本当~~にこんな変態的時代を生きていけるのかなぁ…。自分で自分を変態だとおもってる人ほど乗り越えるの難しそうな変態元年。
というのも、モラルの話でいえば、過去はひどいんだけど、それって今から考えたらひどいって話も多いと思うのね。ということは、未来も今から考えたらモラル的にやばいこといっぱいあるわけやん?
「作家を属性で評価しちゃう問題」は、
- 慣習的な問題→それぞれがしらずしらずに感性にも影響されちゃってる歪んだモラル
- ジャンル別に属性が作品に入り込む度合いは違う→中間くらいの距離だと大衆の想像の余地があるからやんややんや言ってくる→モラルの話
- モラルはどんどん変わるから、自分が否定されていくように感じる人も出てきちゃうかなぁ…っていう飛躍
折り合いつけとかなきゃいけないのかな。