北日本新聞の読書欄で知った作品。
タイトルから、かわいらしい物語だと思っていた。
だが、あらすじとしてはレイプとDVが行われているのに隠蔽体質の社会によって黙殺される話。
『リュウ・イーティンは子どもであることの一番の長所を知っている。それは、誰も自分の話を真剣には聞こうとしない、ということ。』とという、生意気な出だしが軽快で軽やか。
『リュウ・イーティンが幼い頃から理解していたのは、人が経験し得る最高の感覚とは、努力しさえすれば必ず報いがあるとわかることだ』とかも好き。
また、不思議な例えがたくさん出てくる。
- 『さまざまな手で書き写される筆跡は、シャボン玉のようになめらかに吹き出されるものもあれば、生煮えの麺のようにぼそぼそしたものもあった…彼女はいつもこのノートが異なる顔のたくさんの子どもを産んだのだという幻想を抱いた』
- お爺さんははらはらと歩いてきた
- 台湾経済が飛躍するときに一緒に飛び上がった、
- 眼鏡をかけている人には、レンズでフケをあつめているような人もいれば、柵にしがみつくことを誘っているような細い銀のフレームの人もいる。
- 心の中の笑いは沸き立つ水のように、うっかりすると顔から蒸散してしまう。
- 伊紋が玄関で迎えてくれて、扉が開くと、毛毛はようやく幼い頃からなじんできた翻訳小説の原文を読めたような気がした。
よくわからない例えも、詩を読み上げるように聞こえて、ずっと聞いていたくなるようなお話。内容は残酷だけど。
魂の双子のような可愛いローティーンの女の子二人。イーティンとスーチー。イーティンが基本的に語り部。
仔羊の顔をしているイーウェイとスーチーが被害者。
加害者の『先生』みたいな人は、日本にもたくさんいると思う。「生徒も同意した」あたりは本当なんだろうけど、この作品のスーチーの心の戸惑いの描写を見ると読んでいる方もボロボロになってしまう。
スーチーと同じような学生は本当にたくさんいるのだろう。強姦犯を愛しているからこそさらに苦しい。
やはり、レイプにも強姦犯を好きでいることにも、告白した友人に汚ならしい目でみられたことにも、『きっと本当にいろんなところで起こっている事実だろう』と思って、怒りが沸き続ける。
傷つけられたスーチーの思いを隠蔽することがどれだけ恐ろしいことか。
発表後自殺してしまった作者の『彼女の靴の中に立ってほしいと思うのです』も、台湾的な比喩言葉なのかな。
ラストは、パラドックスのようなセリフで終わる。
絶望しかない物語に、つい、光を見いだせるような解釈を考えてしまう。
しかし、プレスリリースの著者の発言に
「もし読み終わって、かすかな希望を感じられたら、それはあなたの読み違いだと思うので、もう一度読み返したほうが良いでしょう」、と、否定される。
ニュースの見出しにしてしまえば、簡単に言い表せる事実を、告発としてではなくて、「さらに細やかなタッチで、あるいは精密すぎるタッチで」描かれている。文字とレトリックによって書くことによって、こんなにも客観的な姿勢を貫いているのに、芸術や文学が裏切るということをはっきりと言う。
作者は、ほのかな希望と絶望の間を最後まで揺れ続けている。
この本を読むときに、スーチーの靴を履いて、つまり、スーチーの人生を生きるようにこの作品の精密なタッチに触れることができる。しかし、私たちは読み終わってから、靴を脱ぐことが出来、『辛い話だったね』と言いながら、加害者を擁護するような社会に戻る。
それでも、希望を裁ち切るように突き放すような書き方が気になって、またこの本を思い返すことがあるだろう。靴を脱ぐことができない人たちを前に、『怖かったね、可愛そうだったね、そんな辛いことばかり話さなきゃいいのに、』なんて、私はこれからも言ってしまうのだろうか。
まだ、私は覚悟ができない。