「ミニマリスト」を卒業しても、書いてきた言葉は誰かにバトンタッチされる

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下の記事を読んで、感じたことについて 

 

「僕がミニマリストとして最後に捨てるもの」Exit Blog | 伊藤光太

しかしここ最近そのミニマリストという言葉に自分自身が縛られているという現実に気づき始めました。

 

光太さんとは、一時帰国している時にお会いして、カメラをお渡ししたことがある。その前にも、肘さん佐々木さん仲村くん渋家に遊びに来てくれたときにSkypeでちょこっと話したことも。

 

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ミニマリスト」を捨てるとき

「シンプル」「ミニマル」という言葉が、人を自由にしてくれることもあれば、その逆に、縛ることもある。

 

シャツを脱ぎ捨てて

それはもう窮屈なシャツのようなもの。

 

シャツに合わせて急速に自分を変えていきたいときは、「ミニマリスト」という言葉はとても役立つ。自分なりに「ミニマリスト」とは何かを考え、モノを精査し、不必要なものを捨てていく作業は気持ちがいいものだ。

 

けれど、ある人にとってはもう、そのシャツを脱ぎ捨てて、またもう一段階「自分として」生きていく段階。

 

けれど今まで書いた記事が誰かのためになる

でも、今まで書いてきたことが無駄になるのかといえばそうではない。持っていたモノが無かったことになるかというと、そうではない。

 

新しく「ミニマリスト」のシャツを着ることによって自由になる人もいる。その人たちのために、 今までの記事が役立つだろう。 最後に捨てたものも、誰かにとって役立つのがブログだ。

 

私はミニマリズムの先に大きな器を持つ自分を望んでいる

 

ひとりひとりにとって、「ミニマリスト」は「終わり」であり「始まり」

そのバトンそのものよりも、バトンタッチしていく文化がいいなあと思う。

 

あなたにとって、「ミニマリスト」の先には何がありますか。